2009年09月08日

手紙 〜受容と喪失の狭間で〜

「最近は、家族の誰もがお父さんを怒らなくなった。」


担当を開始して1年以上経過する、ある若年性アルツハイマーの方のお宅へ伺った時、介護者が話してくれた。

その顔は、本当に穏やかであり、
でも、瞳の奥に寂しさが見え隠れしている。


若年性であるが故に、まさか認知症とは家族の誰もが思っていなかった。
正確には、脳裏をかすめる受け入れたくない疑いを掻き消すかのように、「お父さん」に家族の力で叱咤激励をしていた。

介入できたときは、もう認知症がかなり進んでいる状態だった。
そして、正確に表現するなら「虐待」が起きていた事実が、すでに経過した時の中で起きていた。


何度も繰り返すが、大事な家族であるが故に認めたくない真実を打ち消すように、結果起こる虐待は存在する。


その事実に苦しみながら、介護者はその時々の心情を包み隠さずに話してくれた。
怖い思いも、憎い思いも、悲しい思いも、混乱する思いも。

いつも正直に語ってもらった事は、担当する私にとって幸いな事だった。
どんな風に関わればいいのか、
利用者の心情は、感情は、どの部分が残り、どの部分が嬉しく思い、どの部分が傷つくのか・・・・・
その時、その時、状況に合わせた話をする事が出来、
近く起こり得ることを伝える事が出来た。


真摯な介護者は、こんなしがないケアマネの話をよく聴いてくれ、
そして主治医の助言をよく聴いた。


「やっと、素直に介護や認知症の特集が見れるようになった。」


そういう介護者は、ほんの少し前まで、

介護特集の番組は見れない、
認知症を支える家族の会の会員の話も素直に聴けない、
もっと進行した症状の人や、別の疾患の介護をしている人の話を聞いては、うちはまだいいのかな?と思ってきた、

そんな風に言っていた。


その渦中にある人にとって、芯をつく話は受け入れられない段階というものがあると思っている。
方法論的なものや、感情のコントロールなど
どんなにそうした方がいいと、解っていても受け入れられない事がある。

これは、当然の心理であると思う。


どんなにそれがいいと解っていても、
介護でなくとも、どうしても受容できないモノは人それぞれある。
または、受容できない時代が人それぞれある。


大事なのは、
受容を強要するのではなく、
その受容が出来ない、まんまの状況・心理を、
私たち専門職が、そのまま受容することだと思う。

そして、その人が、その家族が
社会の一員であり続けることが出来るように、
一進一退を繰り返しながら、その時々の心情・気持ちに寄り添いながら、少しだけ家族である事を思い返せるような言葉掛けをする。


私たちに出来る事なんて、そんな事位ではないだろうか?


言葉は人の心に届いてこそ、初めて意味を持つ。



難しい話なんかではなく、
ほんのちょっとでも、顔を起こせるような言葉掛けを
いつも出来る人になりたいです。

(もちろん、危機介入や沈黙の援助も大事です。)



笑顔で、怒らないで介護できるようになった介護者家族は、
本当に穏やかに暮らしています。

でも、
「私が知っている夫はもういないのよね?」

受容することは、喪失にもとれる感情を抱き合わせるのかもしれません。


子供のように可愛い・・・・・
そんな風に漏らしている、介護者。

私がこれから掛けていく言葉は、
「夫」である事を、当然にあるものと思えるように働きかける事かもしれない。

・・・・・そんな風に、思っています。



「手紙」という唄が、少し前から広く知られてきています。

おそらく、介護に携わる多くの方が共感し、涙する中、
受容できない人もいると聞きます。

それは、その人その人の、
おかれた状況や、背景、いろんな事や思いが複雑に関係して、
湧き上がってくる、素直な感情だと思います。


人の思いには、段階があるのかもしれません。


この唄だけでなく、いろんな事柄が受け入れられる、
その過程を、肯定するでも否定するでもなく、
寄り添える事ができる

そんな風になれるといいのかもしれません。





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posted by 木下 小櫻 at 03:24 | Comment(0) | 認知症

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