2010年03月07日

プライドを守らないと、音を立てて崩壊しそう

「あ〜、寄ってくるのはおべっかを使う人間ばかり。
 もう私は、そんなのまっぴらご免だ。
 こうして、静かに過ごしているのがいちばん。」


閉じこもりになって、もう数年が経過する利用者は
介護者の精神的負担感が以前から強くあり、
フォーマルなデイサービスやショートステイ、
インフォーマルな、旅行からお子さんのところへのお泊り

いろんな事を、これまでたくさん勧めてきたが
他者との交流を、非常に拒んできた。

教授である専門学の博士号をもち、
勲章まで授与されているこの方は
今、短期記憶の低下や、実行機能障害、
果ては幻覚・幻聴・妄想に悩まされながらも…
…(正確には、悩んでいるのは介護者で、利用者本人は大したことではない様子)
私から見て、生活維持が難しくなっている状態が伺えている。

すべてのサービスを拒否するその先には「プライド」があった。

「そんな年寄りと一緒になんて、この私が?馬鹿言っちゃいけませんよ。」
「チイチイパッパ…なんて、私は博士・教授だよ?」
「世間の浮世ごとは、関係ない。」

いろいろ理由をつける中で、垣間見えるこの人の不安…

「教授たるもの、人前で粗相なんてできない。」
「教授たるもの、人前で転ぶなんて出来ない。」

すべてはここに行きつく。


このプライドが、介護への障壁になりながらも
このプライドが、この利用者自身を大きく支えている。

ここを崩したら、あっという間に何も出来なくなる可能性が高い。


でも、事実、
介護者(正確には介護が出来ない介護者)の精神的な疲労はピークに達しており、
このままでは、前前より危惧していた生活の破たんが、もう目の前にきている。
介護者は、純粋なまでに純粋で、もともと生活も第3者に委ねてきた事より、介護以前に日常生活の中で、家事や雑事など、妻としての役割も難しい人だ。

お互い、どんな理由で一緒になったのか…

日頃から、こんなやり取りがある。

「もう、離婚するしかないわね。」
「ああ、そんな事を言うなら、離婚だ。」

離婚届を取ってきてほしいと…何度頼まれただろう?


妻の年金を掛けていなかった利用者。
「妻・子どもの為に生きてきた覚えはない。
 僕は、研究の為に生きてきた。
 嫌ならいいんだよ。離婚でも。」

すでに、一人では生活なんて出来ない程、認知症は進行している。
もちろん、利用者にその自覚はない。

介護者も同様で、無年金で浪費。
夫の収入がなければ、生活なんてかなり難しい。

何で一緒になったのか?
「お金に困らないと思った。」
「流れで…。」


…何かと、切なくなる。

排泄に関する支援が必要になってきた現在、
排泄の介助は、到底妻には受容できない。

入所の2文字も頭をよぎるが
そんなつもりは、利用者自身には毛頭ないし、
妻の浪費の生活上、工面する事が難しい。


お金や地位・名声だけで繋がる夫婦。

どこに、家族として夫婦としての接点を見出したらいいのか…


どこに、お互いの存在のかけがえなさを見つけたらいいのか?

…ない…のだろうか?


どんな風に生きて、どんな風に人を愛していくのか?

簡単なようでいちばん難しい。
家族関係が、一般的に「普通」か「複雑」かは、
確かに重要だけど、その家族が繋がっているかどうかは
その気持ちに大きく左右される。



この支援、私はどんな風に支援したらいいだろう?
糸口は、まだ見えません。




小櫻の独り言


人は生きていく中で
いちばん大切な家族にも言えない事実を背負う事がある。

これは、人として生きている以上、
誰しもある事ではないだろうかと思われる。

いつか、「この土地で生まれ、この土地で没したい」と言った利用者が言っていた
「正直に生きる事と、本音で生きる事は違う。」
これを、その利用者は「木下」が教えたと言った。

この「正直と本音」
これが、いちばん私自身に突き刺さる。

「家庭を大事にする」とはどういう事をいうのだろう?

たとえ、DVでアル中であっても
その人を「排除」することなく、「家庭を大事にする」…

どんな支援の本を読んだって、
DVに関しては、「逃げろ」「別れろ」「近づくな」
それしか、書いていない。

アル中だって、本人に断酒の意思がなければ変わらない。


騒ぎが起きるきっかけを、私は理解している。

たとえ、どんな話の内容でも
私が笑って聴いていれば、何もDVは起こらない。

基本的に、私はあまり怒らないし、いつでも笑っている。

この「どんな話でも」が実はネックで

あまりに「反社会的」「差別的」「社会的弱者蔑視」の発言が多いと
…聴き流せない。

本当は、もともと聴き流してはいけない。
でも、聴き流さないと、私の身体がもたない。

でも、それでも、聴き流せない時がある。

結果は、手足が飛んでくる。首を絞められる。
(だいぶ、防御も上手くなったけど…)


なんで、こんなに対極にいる人と結婚したのだろう?
つい、そんな風に思う事がある。


前回の投稿とは少し趣旨が違うけど、
「大事な家族」だから…
そんな視点が通用しないケースが増えるような気がする。

「人」は「人」がいないと暮らせない。

どうしたら、いいのだろう?

いちばん身近なはずの「人」が、実は気持ちの上で遠いところにいるかもしれない。
手を伸ばした時に、本当に掴みたい手は、家族ではないかもしれない。


少なくとも、私はそう思う。

私は、現代でいうところの「常識」とはかけ離れたところで育った。
「家族なんだから、当たり前。」
この業種の人には、とても多く聴かれる言動だ。

倫理綱領にも掲げられるように
正当な生き方と、信念を持つ事はもちろん大事で

「ああ、もう端っから、私は逸脱している…」

いつも、そう思う。

とてもとても、真っ当な人生を歩んでいない。

たとえそれが「本物」であっても
たとえそれが「偽り」であっても

そこに「リアル」にある愛が欲しいだけ。


それでも、すべて全うなモノばかりではないと思う。
人は、その気持ちの奥に押し殺してきたモノがある場合が多いと思う。

だから、上手くいかない事も多い。

私たちに、合わせてもらうのではなく
本当の意味で、その人が欲するものを知ることが出来るのか?
そしてそれは、叶う事が出来るのか?


人が人を支援する事は、
きっとそんなに簡単じゃない。

だって、私にだって公表できない事は山のようにある。






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posted by 木下 小櫻 at 23:09 | Comment(0) | ケアマネジメント
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