2010年04月18日

「生者の意思」を貫きたい。

例えば、その人が何を大事にして、どんな人生を送りたいか?

それは、その人が生きていく過程で最も大事な指標になる。
喩え、それが「一般的に」望ましいとされる方向性ではなくても
その人の望むモノの根拠が、きちんとあって、
他の方法を知らない事による選択肢でないのであれば、

私は、支える。

時々、別の方法や方向性を考えてみる事を提案しながら、
そして、その提案すること自体に、思いっきり怒られながら…。


私は、どんな状態であっても「人らしさ」を保てるものと思っている。

ただ、その利用者は言う。

「人間らしく生きたい。
 だから、自分の足で立っていたい。
 車椅子に乗るなんて、絶対に許されない。
 介助を受ける事もなりません。

 定期的な受診は行くけど、突発的な受診はしない。
 どうするかは、自分が決める。
 親族に連絡する事も許さない。

 もしも、私に意識が無くなったら、
 その時初めて、病院に搬送しなさい。
 それから、親族へ連絡する事。

 自分の意識が保てなくなったり、
 自分で自分の事が出来なくなったり、
 自分の感情や意志がコントロール出来なくなったら
 私は生きるのを辞めます。

 これは、親族へ既に手紙で宛ててあります。」


「生者の意思」
彼女は、この言葉にこだわる。

私は、

自分の足で立てなくなったって
身体が思うように動かなくなったって
認知症になったって

どんな状態であれ、人だと思っている。

彼女が否定する姿は、多くの私が支援をする人々の姿であり
個人の私は、否定する彼女を受け入れがたい。

でも、私は彼女の思いと生き方を受容する。

時々、
もしも、彼女自身が否定する状況になっても
人だよ。

何度もそう言って、彼女に怒られながら。
私の全人格を否定されながら。

それでも、私は彼女を受容する。





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posted by 木下 小櫻 at 22:49 | Comment(0) | ケアマネジメント

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