2010年02月14日

意向を表明できない人々から意欲を感じ取る

ケアマネジメントを進めていく中で、
居宅介護支援において、自身の意向を表明できる人よりも、
何らかの事情や状況の為に、意向が表明できない人の方が多い。

それでも、私たちは「利用者の意欲を引き出し、その意向に寄り添って行く。」

言うまでもなく、ケアプランは利用者のものである。
何度となく繰り返し、自問自答を繰り返す。
ケアプランは、利用者のもの。

「生活全般の解決すべき課題(ニーズ)」は、当然、利用者の望む生活への意欲になる。
「こうしたい」「ああしたい」
望んで描かれる生活への、第1歩になるべきものなのではないだろうか?


この、利用者の意向が、気持ちが表明されない場合、
多くは、こういう事態の方が多いと考えるが、
どんな風に望んで、どんな風に描かれるのが、その利用者のものになるのか…

例えば、脳の器質的なダメージで意向の汲み取りが相当困難な事例もある。
ほんの些細な、表情の変化や呼吸や鼓動の安定、
利用者を以前より良く知る人からの情報、
ほんの少しの、手掛かりと変化から
少しでもその人の生活が、ちょっとでも良くなるように、
きっとその人が、そう望んでいるのではないかと感じながら

その手と、この手に掴めるものは、
ほんの僅かかもしれないし
なにも掴めないかもしれない。

それでも、その人のものになるように…。


また、まったく意向が表明できないわけではなく、

例えば認知症で、思っている事・したい事が上手く表明できない場合
例えば失語症で、思っている事・したい事が上手く言語化できない場合
例えば家族関係や虐待などで、本来思っている事・したい事があってもその表出が阻害されている場合
例えば何かしらの原因で、顕著な意欲低下を起こしている場合、
例えば何かしらの原因で、生きることそのものを放棄している場合


こうしたケースは、
その意向・意欲・ニーズをどう捉えるべきなのか
引き出したものは、本当にその人のものとなれるのか
私が、家族が、関係者が感じ取ったものは、本当にその人の気持ちに寄り添っているのか

そして、ケアプランがその人のものになれるのか…


どんなに考えても、本当にそうなのか
答えが出ない。


ケアプランとは、その「利用者のもの」である事より
千差万別で、個別性の高いもの…と、解釈できる。

上記のようなケースはたくさんあって
でも、それぞれの状況が違う事より
同様に解釈する事は、やっぱり難しい。


それでも、「意向が表明できないケース」をいくつか検証し
何らかの質的データとか、何らかの仮説とか

そんな「何か」があると
私たちの途も、少し日が差すかな…?

そんな風に思ったりする。


今、グラウンデッドセオリーアプローチの本を読んでいる。


社会調査法の一つのようだが、
実践の現場でこそ生かしてほしいという一文から
何か、手掛かりにならないだろうかと思った。

こんな時、大学の推薦を蹴らずに行っておけば良かったと思う。

当時は、何より早く自立して、実家を出て、自分の力で生きていこうと思ったし、
弟が死んだ時から、ずっと抱えてきた看護師になりたかった思いから
どんな方法であれ、最短で看護師資格を取得する事が先決だった。

今さら、大学に行って勉強したいと思っても
看護専門学校卒では、行く場所さえないのが現状。

自分で、本を読んで自分なりに勉強しても
それは、あくまで私流の解釈にしかならない。


とにかく、今の私にできる事は
目の前の利用者と向き合う事と、その人が本当に望む事とは何かを知る事・感じ取ること。

私は本当に、誰かに寄り添う事が出来ているのだろうか?





小櫻の独り言



モニタリングやアセスメントの結果、または要介護認定の更新の際、
ケアプランも変更するわけだが、

その時、私が持てる力を最大限駆使し、利用者に寄り添ったつもりでいる前回交付したケアプランを見て
毎度(毎年・半年)、ガッカリする。

「こんなプラン、立てて交付していたのか?」

我ながら、ガッカリする。

ケアマネジャー9年もやっていて、毎年そう思う。

ある意味、毎年成長しているのかも…とも、とれるが、
その時々は、それなりに利用者に寄り添っているつもりなのだ…

で、時間が経過してみると、「?」なのだ。
しかも、毎月、モニタリングしているのにも関わらず…


確かに、上層部の経営管理により
現在、最大限持てる利用者数をキープ(適正数35件。39件まで可とされ、当然39件持っている。)しているが、

実際、質の高いケアマネジメントを行うには
もう少し件数を下げないと、かなり困難を極めている。

初動ケアプランのまま、利用者像がどんどん変化し、アセスメントシートに落としきれない事もしばしば。
いくら、情報を得たとしても、
いくら、意向を聴けたとしても、
いくら、頭で理解し、現状プランがどんどん動いても、
基本となるべきアセスメントの書面に落とす時間が確保できない事が多すぎる。

「ああ、まともに仕事できていない。」


そんな時、自分の業務遂行能力の無さに落胆する。



この、blog。

最近、若干、タイトルに手を加えた。

あまりにもネガティブなタイトルだったから、
やっぱり、もっとポジティブでないとなぁ…

私は、どんなライフステージにある人であっても
その人にとっての「居場所(物理的・精神的両面)」があるかないか
それは、生きていく上でいちばんの大きな課題であると思っている。

箱モノだけでは、満たされない。
その帰るべき場所があって、その場所で必要とされる存在である事。

「明日、帰る場所があるのか?」
「明日、食べるものがあるのか?」

その心配をしながら、毎日を過ごした。

毎日、多摩川の河川敷でランドセル背負ったまま座り込んで、「またお前か!?」と呆れながら補導し、学校まで連れて行ってくれるお巡りさんの背中に向けて言った。

「ねぇ、明日ママが帰ってこなかったら
 交番に泊めてくれる?」


居場所がないのは、何より恐ろしい。
そこに、必要とされない事は、何より寂しい。

大事なものに、認めてもらえない事は、何より怖い。



あくまで、私の個人的な思いから来る見解だが、
あながち、すべての人に共通できる事ではないかと思っている。

…あくまで、状況はそれぞれ違うし、ケースバイケースだけど。





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posted by 木下 小櫻 at 23:50 | Comment(0) | ケアマネジメント

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